昭和五十一年十月十九日 朝の御理解
御理解第五十四節 徳のないうちは心配をする。神徳を受ければ心配はない。
徳を受ければ心配はないということはどういうことか。徳を受けても、やはり、徳を受けておる人の上には雨も嵐もないか、雪も風もないかと。言うことではない。徳を受けておる人の上にでも、徳のない人たちの上にでも、やはり世間の風というのは同じだと。雨も降れば風も吹くんだと。
徳を受けるということはどういうことかと言うと、神様の働きを信じて疑わないということなんだ。神様の働きを信じて疑わない。これ程信心するのにどうして雨が降るだろうか、風が吹くだろうか。どうしてこんなに痛い思いをするだろうかというようなことがない。痛いこともある、雨も降る風も吹くけれども、それがおかげであると信じれれる人がお徳を受けた人なんです。神様を信ずると。わからして頂けば頂くほど一切が神愛であると分からして頂くときに、どういうことであっても自分の都合になることがおかげと、またそういうおかげを信じておるというのでは、徳を受けたということにもならないし、それでは心配はないということはない。不平不足を言うようなことであっては心配がないとはいえない。
まぁ、私が、少し感じさせて頂くことはどういうことかというと。どういう難儀な問題に、そこに直面しても、そのことは難儀は難儀なんだけれども、その難儀が必ずおかげの元になると言うことを私は信じておる。それは、例えば死んでもそうである。例えば、死ぬ。または、身近なものを亡くするということは悲しいことであり、苦しいことであるに違いないけれども、これ程お願いしとったのに死んだというのではなくて、死んでもその後がおかげになると。信ずることはそれなんです。
だから、そういう神様を信じて疑わない心が出来る事のためにはです、やはり、神様の御働きと言うものを、もう普通では助からない、と言うものが、一心にお縋りをして助けて頂いたと。普通では道が開けると思えないのに不思議な不思議な道が開けたとか。所謂、信心しておかげを受けるのは不思議ではないと言われるけれども、不思議と思わなければ居られないというおかげを頂き続けて、初めて、そういう、これ程間違いのない神様の御働きであるから、これもおかげの元になると信じられる訳です。だから、やはり、本当に一生懸命の修行もする、一生懸命のお縋りもさせてもろうて、それこそ信心の無い者から見たら不思議だ、目を見張るようだというようなおかげを受けて、それを続けていくということ。だから、その間に、例えば右と願ったことが左になってもです、こういう間違いの無い神様ということを踏まえてですから、これは神様のご都合に違いはないということになる訳です。
昨夜の月次祭に、今日もお参りしておられますがね、林さんのお導きで、お母さんが子宮癌で、医者はもう助からないと言っておる。お導きを受けてまぁ一週間に一遍づつぐらいお参りしてくる。ちょっと見た目には病人じゃないような風にしておったのが、この頃から少しひどくなって、顔にむくみが出たりなんかで、もう寝たっきりだといっておる。そういう病人を昨日、林さんが連れて参ってきておる、昨夜の月次祭に。
もう本当に神様の働きを信じなければ連れてこられませんよね、そういう病人を。元気出しなさい、おかげ頂くがち。と言うて、だからそこの娘と、林さんと三人に、それこそ抱えられるようにしてお参りをしてきた。そして、林さんがお知らせに頂いておられることが、あれは、白と、餅でしたかね。(尋ねる)あっ、お饅頭だったね。真っ白い饅頭とね、ちょっと黒みがかったような饅頭を頂だかしゃった。もうどんなに考えても、もう刻々であることが分かるでしょうが。ね、言うならば、もう白と黒になりかけとる。 私そのことを神様にお取次ぎさせて頂だいたらね、これに、熱情が本当にかけられて、黒になりかけとるようなその饅頭が、真っ赤になったときに、それこそ紅白の饅頭ということはめでたい時しか使いませんよね。その饅頭ということが、私は、ま、神様の何か、思いを感じますね。分かりますか。私はお餅だと思ったがそうでは無かったですね。お饅頭。だから、これに信心の熱が掛けられたら、紅白の、言うならばめでたい、有難いおかげになるんだという事なんです。これが黒になってしまったときにはもうおしまい。そんなに難しい状態のものを連れて参ってこれれるということは、やはり神様を信じておらなければ、合楽の親先生を信じておらなければ、とても、途中でどげな事があるやら分からん。あんたが連れて行ったけこげなこつなったと、まぁ言われたらどうするかと、思うただけでもとても連れちゃききりませんよね。神様を信ずるから出来るのです。
だから、本当に我武者羅のごとありますけれども、そういうところを神様を信ずる力を頂くことのためには、そういう言うならば、修行というか、信心もまた、出来なければならないということです。どんな事であっても、どんな場合であっても、神様に一途にお縋りしてさえいきゃおかげ頂けれる。そうしてね、よし途中でどういうことがあっても、そのどういうことでもあること、そのことによって自分が困った立場に立たなきゃならんけれども、そのことがおかげの元にもなりゃ、力を受ける元になると確信するところから、それが出来るんです。そこに、徳のない間は心配をする。徳を受ければ心配はないというような信心は、そういう風にして出来て行くんです。徳を受ければもう結構だらけの事が続くということじゃ決してないという事です。どういうことがあっても、それがおかげの元になる。信心を貫くということにさえなっていけば、どういうことであっても、それがおかげの元になるんだと確信させて頂けれる信心が、まず願われ、求められる訳であります。いよいよ、徳を受けて心配はないというところまでお互いの信心が進められていかなければならない。
そこでです。なら、どういう信心をさせて頂いておれば、そういう安心が生まれるか、おかげが頂けれるかと言うと。
昨夜もお月次祭の後のお話のときに申しあげましたように、昨日、日田の高野さんたちが、夫婦で熱心に参って来ます。今度の御本部参拝の時に大分支部から車をたくさん出してもらった訳でしょう。その中に、支部長の綾部さんから、送り迎えの車を出してくれと言うて、電話があったときに、丁度それが、食料品ですかね、野菜、果物なんかを商われるお家ですから、丁度忙しい時間だった。それで、出来ないと言うて断わった。断わったけれどもどうも心に掛かって掛かってしようがない。それで晩休ませて頂くときに、神様どうさせて頂くことが本当でしょうか。こんなにも心に掛かるということはどういうことでしょうかと言うて、お伺いをさせて頂きながら休ませて頂いたら、お夢の中に自分が一生懸命にミシンを踏んでおるところであった。しかも、あの糸が機械に巻きついてから前に進まないところを頂いた。そして目が覚めて、「はぁ、自分たちは神様にお願いをする、お頼みをすると言うて、神様の都合も何も言わずに、只我武者羅にお願いしますお願いしますばかりいうとって、神様が、お頼みになるときには、神様の御用をしてくれと言われるときには、私はその日は丁度忙しかとか、丁度忙しい時間ですからとか言うて、自分のことを中心にして、断わるということが如何に間違いであるかということが分かった」と。で、明くる日早速御用させて頂くことになったというのです。
これはね、皆さんに分かって頂かなければならないことは、自分を中心にしていくような信心からは絶対に安心は生まれないです。もし安心しとるというなら、それはいよいよもって横着です。慢心です。言うならば、神様の御用と、例えば言うならばです、一にも神様、二にも神様と言ったようなことをいつも私が申しますけれども、いつも神様中心主義の信心をしておらなければ、安心が生まれるはずは絶対ありません。また、力を頂く、徳を受けるということがあるはずもありません。只、我武者羅に自分の願いが成就しなければならんから拝みよります、参りよりますというなら、一生信心したってお徳は受けられるはずはないです。言うならば、自分本位ではなくて神様本位。自分中心じゃなくて神様中心と言ったような生き方をさせて頂くときにです、もしそれが神様の御用であったら、理屈は言わんです。何を置いてでも、それこそ店を閉めてからでも御用をさせてもらうというような思い込みができておらなければ、そういうときに「はい、承知しました。おかげ頂きます」とは言えんのです。「それがあなた、都合があって・・」と、必ずなるです。自分が中心だから。
今日の、徳を受ければ心配はないというような信心をする人ならば、絶対神様が中心です。だから、そこん所をです。場合には自分が中心のこともあるけれども、神様を中心に、言うなら神様本位の生き方を本気で身に付けさせて頂こうと。
昨日、日田の綾部さんがお届けするのに、何か、今度、幹部入殿が、本部入殿が、今度入殿形式であると言うことです。それで、金光様宛に入殿させて頂きたいという願書を出さなければならない。それが、今日までか、明日までかということを、昨日秋永先生から聞いたんです。それで、「今度は綾部さんに行って頂こうと思よりますが」「どげな風じゃかな。本人が行くち言わなきゃでけんもんじゃけん。そりゃどげんじゃかね」と私は言うとったら、昨日月次祭参ってきてからそのお届けがございました。「秋永先生からこういわれましたがどう致しましょうか」ということであったから、本な、何日か前に本部参拝して帰ってきたばっかりですから、普通、只ご本部参拝というだけなら、もう、本な何日か前参ったつですけん、今度ご無礼しゅということなる訳ですけれども。お伺いをされたら、「お繰り合わせを願われたらいいです」ということであった。だから、言うなら、お参りができるように、入殿ができるようにお繰り合わせを、「じゃお繰り合わせをお願い致します」という腹が決まった。そういう風にして、神様中心で、生き方は稽古して行くもんだと私は思う。自分としても、親先生が行かんで良かと仰れば行かん方が良かばってんというようなものであってもです、代表で、言うなら合楽から誰か行ってもらわなければならん。それに綾部さんに白羽の矢を信徒会長が立てた。実を言うたら、もう、おかげ頂きますと言うてもよいところだけれども、やはり、本な参って、帰ったばかりじゃから、二の足を踏むからこそ、ならお伺いをしようということになった。けども、お伺いをして、「そりゃ、おかげを頂いたほうがよかろう」と言われたら、そこに腹が決まる訳。お繰り合わせを願われたらよかろう。お参りができるように、参加ができるようにお繰り合わせを願う。そこに腹が決まって、ならおかげを頂きますように、どうぞよろしゅうということになる。
だから、神様を中心にしての生き方というものはそういう風にして稽古して行く訳なんです。そして同時に、高野さんの例じゃないですけれども、「本当に、日頃は自分のことをやあやあ言うてお願いをしておって、事神様のことといや、自分の都合をいうて、右左を言う」。そういうことでは、決して、徳を受ければ心配はないと言うようなおかげにはなってこない。
今日、皆さんに徳を受けるということは、また、安心ということは、例えどういうことが起こってきても、その起こってきたことが大きければ大きいほど、次ぎのおかげが大きいという信じ方です。どういう問題があっても、その問題の向こうには必ずおかげがあると信じること。これがだんだん確信づけられてくる。確かにそうだと。だから、どういうことが起こってもそこに貫いて行く信心さえしておれば、おかげになると確信が出来ると同時に、いうならば、日頃がいつも私中心ではなくて、神様を中心、神様本位。私本位の信心から、そういう信心になってくる。
これも、昨日高野さん達が、夫婦で参ってきてからのお届けでしたけれども、買い物に見える奥さんで、大変悔やみなさる奥さんがある。それで、いっぺん合楽にお参りしなさい、と言うて合楽のお話をさせて頂いた。所が、私は本当に、合楽のお話をさせて頂く度に思うことですけれども、自分達がこんな状態で、お話を大体してもよいだろうか。あゝ、あれは合楽に参りよる金光様の信者げなと、人から言われて、もうあれ達がと言われるような自分達ではなかろうか。金光様のお話をすることは、合楽のお話をすることは却って冒涜したり、却ってご迷惑になることはなかろうかということを何時も思います。それでもやはり、難儀な問題の人を見ると、やはり合楽でおかげを頂いたお話をしなければおられないというお届けでした。
そういうところが、高野さんの信心はすばらしいなぁと思いました。本当におかげを受けるです。その人にそういうとったら、丁度大祭の前の日に、また、そう言うて悔やまれた。「そんなら明日ご大祭じゃから、いっぺんご大祭におかげ頂きなさい」というたら、「そんなら、連れて参ってくれ」ということで、その大祭におかげ頂いたというのです。所が、昨日こちらにお参りしてくる一寸前に、その奥さんの主人になる人がわざわざ見えてから、「今日は御礼に上がりました」と言うて、御礼を言われるのに、「合楽から帰って来て、家内が『有難い有難い』と言うて、『とっても、こんな有難い神様はござらん。どうでん、私どんも信心せなならん』と言うて、今日までね、もうこっとりとん言わん」と言うことは、「私げにゃ、そん、家内一人で家の中が、毎日が真っ暗であり、家の中がガタガタとしておった」とこう言うのである。だから、やはり癇癪を回したり、主人にやかまし言うたり、子供を怒ったり、家の中がガタガタいいますようなこともです、苦しくてたまらんからですよね、やっぱり。だからその苦しさを、言うならば高野さんに、その人は言われた訳ですよ。話を聞いて、なら、高野さんも分かられたことは、そげな奥さんだったですかと言う感じ何です。所が、主人が合楽に連れて参ってもろてから、これが何時まで続くか分からんけれども、おかげを頂いて、まぁ言うなら、有難い有難いで、その、やかましも言わんごとなって、家の中もこっとりともいわんし、言うなら暗い家庭が明るくなったというて、御礼に見えましたという御礼が、昨日一緒にありました。
だからね、本当に信心させて頂いて、やっぱそのくらいに変らなきゃ嘘ですよ。日参り、夜参りしてもいっちょん変わらんなら、それは、値打ちはないです。その奥さんが参ってくるごとなったら、おそらく主人もついて来るでしょう。お前の変わり方を見たら、付いてこなければおられないことになるでしょう。家のお母さんどんが、ああして参りよるばってんか。というようなことではついてこんということ。だから、信心には改まりが第一と言われる。そういう改まった心で、今日私が申しますような、私共の信心のあり方というものが、何時も私本位ではなくて、神様本位というような信心に進んで、どういうようなことに出会っても、例えそれがよし死んでも、所謂ままよというような心です。死んでも、例えばそれは、その難儀であれば難儀が大きいほど、おかげもまた大きいと、ここだけは信じれる信心にならなければならない。おかげになると言うことを信じるのではなくて、私共の考えでいうおかげではなくても、却って困った結果になっても、その困った結果になったということがおかげの元に成るんだと言う信じ方。これは、私が頂いておる、どういうことになっても、それを受けて立たしてもらう信心さえ頂けば、そのことがおかげの元になると確信でけるときに、そこに生まれるのが安心だということであります。
「はぁ、これが死んだならどうしようか、どうしようか」と、その不安ではです、安心ということではないでしょう。一生懸命お縋りをする。そして奇跡的なおかげを頂かなんと思う。けれども、万が一、それが反対のことになっても、良いというのではなくて、その先に必ずおかげがあると確信することです。そこにあるのが、安心です。徳を受けたからというて死にもせにゃ、困ったことも起こってこないということでは決してありません。それも神愛であり、その向こうに必ずおかげが頂けれることが、おかげの前提であるという風に信じれれる。私は、徳を受けた人は、そういう信じ方が出来れる人をお徳を受けるということになると思う。ために、一つ自分を空しくして、又は改まった心で、自分中心から、神様中心の信心にならせて頂くところから、一寸簡単ではないですけれども、願うときには自分のことをやあやあ言うてお願いしておって、ただ、一寸自動車を出してくれ、自動車を御用につこうてくれと言われたら、もうそれを忙しい、ちょうど忙しいときですからと言うて断わるようなことでは、さぁ断わって心に引っかかって引っかかってたまらない。その引っかかって引っかかってたまらんくらいの信心はせないかん訳です。断わって、それが平気でおられるくらいな事では何時まで経ってもおかげにゃ成らん。そりゃ、神様が忙がしかぐらい知っちゃるけんで、と言うような信心では徳は受けられないということです。引っかかる。だから神様にお縋りをする。お縋りをさせて頂いたら、一生懸命自分がミシンを踏んでおる。一生懸命踏むだけで、糸はギリギリ巻きにそこ辺になっとるから、一つのものを縫い上げようにも縫い上げようがないようなことに、結果はなるんだ。と言うことを神様に御神夢を頂いて、自分の気持ちが、自分の願うことばっかり願うて、願われるときにはこちらが理屈をつけて、それをお断わりするといったようなことでは相済まんと分かって、次のご用をさせてもろうたとこういう、そういう信心が繰り返されていくうちにです、本当な物が生まれてくるんだ。安心というのは、そういう風にして出来ていく。そういう信心も何もなしに、私はお願いしとるけん、お取次ぎを頂だいとるけん安心しとりますというのは、それは、ちょっとばかり横着な信心だ。いうなら、あなたは、それは楽天家だということになります。楽天家ではいけんのです。良く似てます。信心の安心というのと、楽天的な考え方というのは良く似てますけれども、実際は大変違うのです。片一方は、力がある。あるからこそ信じておれれるのです。安心しておれれるのです。 徳のない間は心配をするが、神徳を受ければ心配はない。自分が信心がだんだん出来たように思うけれども、たったこのくらいのことが気になってたまらん。このくらいのことが不安で、心配でたまらん。そこに、自分の信心を見極めてです、こういう信心ではならん。と次の信心を目指さなければならんということは、お参りとか、修行とかというようなことに掛けるのではなくて、自分の信心が、どこまでも自分本位の信心であるところから、神様本位の信心にならせて頂かなければ、という風に気付かせてもろうて、そこを、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと、三代金光様は私に教えて下さってあります。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますが、本当にそうだと確信が出来たときに生まれてくるのが、安心ですよね。どうぞ。